------------------------------------------------------
元山芳彰のモンゴル報告
元山芳彰のモンゴル報告(24・最終回)−モンゴルが与えてくれたもの
2006年7月15日
ナーダム祭は終わったが、モンゴルは清々しい夏の真っ盛り。建国800年の記念行事はまだ続く。五百騎のジンギス・ハーン騎馬兵士による大型のショーもある。日本の映画会社の「青き狼」のロケも順調のようで、来春予定の封切りが楽しみ。景色が存分に写っていることを願っている。今年は5・6月の雨が十分で草原の野花と緑が特に美しいらしい。

外国からの観光客が街に溢れ、常連客も例年以上に多いようだ。「モンゴル気狂い」と言う言葉もあるが、モンゴル大好き日本人に、この国の魅力は何か聞いてみると、意外にはっきりした返事はすぐには返ってこない。しかし、「草原の広がり・馬・日本と全く違う文明・なつかしい習慣・素朴な生活・爽快な空気・魅力的な女性・物価が安く優雅な気分が味わえる」などの組み合わせが普通。

日本からの旅行者の大部分は還暦を過ぎた男女であるが、ここ数年、癒しを求めて休暇に訪れる三十代のキャリア・レデイー達が増えてきた。日本人の耳にも心地よい、母を想い・故郷を思い・家畜を称えるモンゴル民謡に安らぎを覚え、メールも電話もない草原のゲル・キャンプで唯ゆったりと流れる時を過ごして、現実の世界に戻るエネルギーを蓄える−癒しの国でもある。

ナーダム祭の競馬キャンプでモンゴル相撲取り・遊牧民の牧童達と。

私は先月70歳になったが、この十年間を振り返ると、会社生活を続けていたら恐らく得られなかったすばらしい60代であった。モンゴルに負うところが多い。何の予定もなく始めた第二の人生、最初は過去の延長を求め、物足りなさを感じるままに、全く偶然に訪れた国。第一印象は、「ひどい所に来てしまった。」だった。しかし半年も経つ頃には、その魅力に引きずりこまれ始めた。それまでの産業文明の価値観とは全く無関係で超越している国、数千年変わっていない自然と素朴な民にロマンを感じ、「生きているぞ!」との実感を与え続けてくれる国。2万年さかのぼれば日本人のルーツの民の住む国、それがモンゴル。
                                      (おわり)

あとがき
この「モンゴル報告」シリーズはちょうど一年が経過、今回を最終回とさせて頂きます。今までほとんど書かれていないモンゴルについて記してみたつもりです。私の地元の市立図書館で、「モンゴル」で検索すると百冊以上の本がリストアップされ、インターネットでは3百万件近くもヒットしますが、この国について深く知りたい方々には、
     平原の記  司馬遼太郎
     モンゴルの歴史と文化 ハイシツヒ(田中克彦訳)
     モンゴルに住んで  一の瀬恵
     モンゴルを知るための60章  金岡秀郎
     私はモンゴル人  ボヤン・ヒシグ
     日本人はるかな旅  馬場悠男他
等の本をお薦めします。

最後に、本シリーズ掲載の機会を与えて頂いた(株)エイバックズーム堀部茂遠様に深く感謝の意を表します。また、ビジネス文書しか書いたことのない一企業人の拙文を読んで頂き、質問・間違いのご指摘などを下さった読者の皆様にお礼を申し上げて筆を置きます。
                                    元山 芳彰
2006年7月吉日

表題に戻る


元山芳彰のモンゴル報告(23)−モンゴルに住む
2006年6月30日
若い頃、世界の男性の理想的な生活として、「日本女性を妻にして、英国式の家に住み、中国人の料理人を持つ」事とよく聞いた。私が今言うとしたら、「モンゴル女性を妻にして、モンゴルに住み、・・・・・・・」となる。モンゴルで、引退生活を送る欧米人に、これを実践している人たちが多い。日本人はまだ少ない。勿論、モンゴル人と結婚してモンゴルに住む幸福そうな日本人はめずらしくないが、生計を立てるのは楽ではないと思う。

私の知っているすばらしいと思う例を数人挙げると:
まずテキサス出身の七十代の男性。若い頃に石油採掘の仕事でモンゴルに来て、その後はアメリカとモンゴル行き来の生活。何時もカウボーイ姿で生き生きしている。若い頃はモンゴル人と良くウオッカを飲み、取っ組み合いの喧嘩もしていたらしい。彼によるとモンゴル人男性の性格はテキサスのカウボーイに似ているという。何事にも大まか、単純素朴で、日常生活に馬が欠かせない。今後も、数ヶ月毎のアマリロとウランバートルの二重生活を続けるという。
もう一人は、モンゴルの女性と再婚した六十代のオランダ人。毎年5月から10月までは奥さんの方の遊牧民家族とゲルの生活、放牧した家畜の面倒を見る素朴な毎日を過ごし、冬は二人でアムステルダムでのアパート暮らし。
高級フレンチ・レストランを経営している六十代のヨーロッパ人。再婚したモンゴル人女性が店の切り盛り、彼の仕事は欧州から連れてきたシェフの管理と、大使館等からのお客の話し相手をすることらしい。

JICAシニアボランテイア(後列3名)の第二の人生、モンゴル赴任は
言葉の特訓で始まった。内2名は任期終了後もモンゴルに行き来している。

前出の写真中央の佐藤武久氏のウランバートル郊外のゲル。
モンゴル 滞在時は、今もここから市内に出かけて仕事をするそうだ。

私の考える理想的な外国での引退生活とは、年金の範囲で生活出来て、社会の役に立つ仕事が少しあって、日本と行き来の出来る生活。それがモンゴルで可能だ。仕事は、奉仕のつもりであれば、年配者でも日本よりは見付け易い。わくわくするような冒険と未知の魅力もある。四季もある。それに昔の日本の習慣の数々を思い出させる居心地の良さがある。奥さんに先立たれた友人たちには、常々モンゴルで新しい伴侶を探すよう勧めている。唯、今のところモンゴル人と結婚するか、学校に通うか、仕事に就かないかぎり、長期滞在ビザは取れないようだ。今年の場合で、毎回最高3ヶ月の滞在しか許されていない。

表題に戻る


元山芳彰のモンゴル報告(22)−ナーダム祭がやってくる
2006年6月15日
今年もナーダム祭がやってくる。それは、待ちに待った短い夏のハイライト。何百年も続いている7月11日の革命記念日から数日間のモンゴル最大の祭典で、平原を走る子供の長距離競馬(10−30Km)、日本でも知られているモンゴル相撲と弓射の競技などが開催される。特に今年は建国800年で観光客を意識した記念行事も多い。

6月の中旬になると、何もが開店休業状態で、国中のモンゴル人が開放感を満喫している。厳しく長い冬から砂塵の舞う5月が終わると、一挙に来るすがすがしい夏。皆な数週間の夏休みを取り、ウランバートルに住む人々は田舎に帰ったり、田舎からウランバートルの親戚を訪れたりする時期だ。遊牧民にとっては、春に生まれた家畜の子達も順調に育ち、冬支度に入る前年一度の休暇時期。草原には色とりどりの花が咲き乱れ、空はどこまでも青く、空気は澄み渡り遠く地平線の山々まですっきりと見える。日本人も、この時期に一度でもモンゴルに滞在すると、恐らく一生忘れられない独特な雰囲気がある。日本の物質文明とは全く異なる文明(ある作家は「もう一つの文明」と呼ぶ)、時間が止まってしまったような広大でどこまでも静かな自然!

しかし、モンゴルの夏はナーダムと共に終わると言われる程短く、8月も中旬に入ると雹が降ることもあるなど、日本の秋にも似たうら寂しさが漂い始める。
日本への留学OBや留学中のモンゴル人の話を聞いてみると、憧れの日本も耐えられるのは3年から5年らしい。日本に落胆するのではなく、仕事中心の息切れするような忙しさ・人の多さ・何事にも几帳面でなければならない事等々で、給料は極端に安くても、やっぱりモンゴルが一番と気付くようだ。森の国ドイツ留学OBからも同じような話を聞く。そのモンゴルの良さがこの短い夏に詰まっていると思う。

表題に戻る


元山芳彰のモンゴル報告(21)−モンゴルの人々
2006年5月31日
ウランバートルに数日滞在すると気がつく事に、子供が多く女性が目立つことがあげられる。
元気で可愛らしいモンゴルの子供達。
(ウランバートルで幼稚園の先生だった佐藤千秋さんの撮影)

子供たちは眼がきれいで、日本の子供達より無邪気で恥ずかしがり屋、本当に可愛らしい。マイナス30度の真冬でも外で元気よく遊んでいる。彼らを見る大人達の目が温かい。今年の冬はほとんど見受けなくなったがマンホールに住んでいるストリート・チルドレン、大学の食堂で食事をしていた時に良く残り物を目当てに入って来る事があった。それに気付くと学生達は急いで、同じテーブルの残り物をまとめて彼らに食べさせていた。学生アルバイトのウエイトレスが飛んできて、「ここに入ってきてはだめですよ。あっちに食べ物があるから一緒においで。」とやさしく連れ出しているような光景によく出くわした。子供たちを社会全体で共有しているような感じを受ける。親たちはきびしい躾はしないで唯可愛がっているようにも思える。喜怒哀楽が素直に出て、泣き出したら何時までも泣いている。60年以上前の私の子供時代と同じような気がする。

ウランバートルのキャリアレデイー達。ボギーさん(左)はバックの大手ホテル・レストランの マネジャー、トヤさんはエステイシャン。二人とも子供を育てながら夜は大学で語学の勉強中。

次にウランバートルの女性達。以前にも述べたが、モンゴル最大の理工系大学でも女子学生の方が多く、その大学の付属繊維研究所などは、確か百数十名の所員で男性は運転手だけだった。バイオ関係のハイテックの会社も同じようで、研究所も工場も90%、会社トップも次のレベルも全て女性だった。政治家は2−3割らしいが。大学進学率は女性の方が高く、女性が職業を持つことは当たり前。一般的に男性より勤勉。辛抱強いこと・面倒見が良いこと・向上心が強いことなども特徴。それにもう一つ、歌のうまい人が多い。

  モンゴルには17の部族いて、日本人にも良く似たハルハ族が70%を占める。ウランバートルにはモンゴル中から人が集まる傾向が続いているが、ハルハ族が主だ。私の父に瓜二つのモンゴル人に出会ったこともある、日本では一度もないのに。北のロシアとの国境近くとロシア側は、日本人にDNAが最も近いとされるブリアード族が中心。アメリカ・インデイアンにそっくりな人とか、アジア人の顔つきで、眼が青色とか褐色もあり、赤毛の子供も居る。皆仲良く暮らしていて、差別など全く無いように思える。現在も中国からカスピ海の近くまで散らばっているそうだが、ロシアのブリアード自治区・内モンゴルと今のモンゴル国と主に三つに分かれている民族の悲しい現実がある。満州国を作った日本にも責任があるようだが、彼らは中国・韓国などよりずっと親日的である。

表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(20)−ビジネス・パートナー
2006年5月14日
(会社運営5)モンゴルに進出してビジネスを成功させるには、信頼出来て有能なパートナーを得る事が不可欠だ。ここで言うパートナーとは、合弁会社の相手も、百パーセント子会社のモンゴル人経営幹部も含まれる。有能な人材の確保はどこの国でも同じだが、その度合いがモンゴルは特に高いと思う。

私が長い間関与していた欧州のある国際企業は、百年以上の歴史を持つ超優良企業であるが、外国市場での売上が全売上の95%近くを占めるだけあって、外国子会社の経営について確固たるノウハウの蓄積を持っていた。従って、有能な現地人経営幹部を必ずしも必要とは考えておらず、自国或いは第三国から信頼出来るスタッフを進出する国へ派遣していた。モンゴルでも、これと同じような手法を用いている日系企業を見つけた。日本企業が買収したそのモンゴルの会社は経営陣がアメリカ人であったが、買収後もそのまま経営を任せている。その事業分野のノウハウは、アメリカが世界で一番進んでいるせいもあると思うが、日本企業としては非常にめずらしい。そして2年かけて内部からモンゴル人の社長(COO)を選んでいる。

また、日本の会社がマジョリテイを持っている或る会社は、モンゴル進出のパイオニアで、創立以来社長は信頼出来るモンゴル人。社員百数十人の会社だが、過去5年間で3タンオーバー以上に相当する社員が入れ替わっている。この異常とも思える高い入れ替わり率はモンゴルの特徴だが、上位10%の幹部だけを調べてみたら以外に安定していた。

モンゴルで成功している企業家は、
*政府・官僚とのパイプが太く
*一事業で成功すると、全く違った分野のビジネスを始め、
*ロシア語以外の外国語は喋れない
場合が多い。私が今までにモンゴルで出会った多くの経営者は、大多数が30−40代と若くエネルギーに満ちている。モンゴル語しか喋れなくても、世界で通用すると思える経営者は勿論少なくないが、政治家か経営者か解らないような、何を考えているのか判らないような、他のアジアの国では余り馴染のないタイプも多い。

私の限られたモンゴルの経験では、信頼出来て有能な人材にたまたま出会えれば幸運であるが、前述最初の日系会社のように、まず自由経済下で経験の豊富なトップを派遣し、次に若くて柔軟な考え方が出来て向上心の強いモンゴル人を出来るだけ多く採用し、その中から数年かけてトップ後任を選ぶのが最善だと思う。例えば10人採用すれば、一人か二人はそのような人材に必ず出会えると確信している。選ばれなかった幹部の一部は会社を去るかもしれないが、それは仕方ないと思う。
50代はまずトップに推薦出来ない。信頼出来る人は、若い世代より多いと思うが、社会主義時代の価値観は変わらない。彼等にとってロシアは偉大な父であり、昔の方がずっと良かったと思っている人が多い。

ウランバートルのロシア系小学校。授業は全部ロシア語だが3年目から英語の勉強が始ま る。この子等が社会人になる頃には、英語が一般に通じるモンゴル国になるのだろう。

表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(19)−仕事への姿勢
2006年4月26日
(会社運営4)モンゴル企業の経営者と会社員のメンタリテイは日本の1950年代に近いようだ。その頃から日本で企業診断をされていたある中小企業診断士の経営コンサルタントが、数年前に企業の現地調査をされた時に聞いた感想である。確かに生活レベル・給与レベルは日本のその頃に相当する。モンゴルの大学卒の月給は1-1.5万円程度。中堅幹部は、企業間で大分差があるようだが、1.5万から2.5万円。私が1959年大学を卒業した時の初任給は1.3万円だった。
モンゴルの経営はトップダウンが主流。経営者の判断は感覚的で余り分析的ではない。中堅管理職をバイパスしたトップから担当者への直接指示も多く、ボトムアップの要素は少ない。第一線の仕事を担う社員の工夫とかアイデイアを生かすとか、組織全体の生産性を意識した経営は未だ芽生えていないようだ。業績が良いときにボーナスを出す会社はあるが、社員評価の基本は減点主義。それも、例えば大きなレストランでは遅刻回数とか壊した食器の数などで毎月の給与から15%天引きされるなど強烈だ。中堅幹部の部下の評価にしても、評価基準が曖昧で個人的な感情が大きな要素を占める事が多いように思う。
のどかな田園風景。人もあくせく働く気にはならない。

平原をゆったり流れる河。人を急がせる気にはしない。

私が社会人として最初に働いていた日本の会社は歴史ある社員4-5000人の化学会社だったが、経営者は皆立派に見えたし、社員も一生懸命に仕事をしていて、会社中にエネルギーがみなぎっていた気がする。つまり、戦後20年で日本の企業経営はきちっと出来上がっていたと思う。日本の工業製品の輸出も伸び始めていた。モンゴルは社会主義崩壊から今年で15年目。もともと教育レベルは高い国であり、中国程ではないにしても毎年10%前後の経済発展を続けているので、これからの十年で経営技術も一般社員の生活水準も飛躍的に改善されるのだろうか。現在進行しつつある大きな資源開発プロジェクトが具体化するだけでも、一人当たりのGNPは現在の2-3倍になると言われている。
正確な統計はなかなか得られない国だが、モンゴルの企業数は2-3万社で、その90数%は社員数100人以下で、日本の基準では99%近くが中小企業に属する。従ってトップダウン経営でも十分機能しているように思える。中国やヴエトナムのように大きな市場を持つ国であれば世界中の優良企業が進出して、経営技術も一緒に入ってくるのだが、モンゴルではその機会が非常に少なく、経営技術の遅れは自他共に認められている。

表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(18)−狼狩り
2006年4月2日
 モンゴルの友人3名と土地勘のある案内人3名を連れて猟に出かけた。持参したのは猟銃製3丁、散弾銃1丁とピストル1丁、全て1940年代の古いロシア製。牛肉数キロとねぎ・にんにくなどの出発前にザハ(市場)で買った食糧も日本製の四輪駆動車2台に乗せて昼ごろ出発。
 ウランバートルから南に約80キロ下ったウンドルドーブから舗装道路を外れて山中へ進んだ。写真のように見渡す限り一本の木も無い、所々残雪の丘陵地帯で、狼が潜んでいそうな谷間の茂みを探す。2班に分かれて見晴らしの利く所に陣取り、反対側から道案内の一人がピストルで誘き出し、逃げる狼を数百メートル先から撃つ戦法だ。
 昼頃から夕方まで走り回ったが、茂みは余りない。それでも十箇所程回ったが出くわした狼は1匹だけで成果なし。途中タルバガン(草原に巣を作る大きなリスの一種)を仲間が2匹射止めた。モンゴル人の視力は2.0-3.0が普通だそうだが、視力1.0の私にはほとんど何も見えなかった。
 夕方案内人の一人の家族が住むゲルで一休み。羊・ヤギ・馬の群れは皆ゲルの周りに戻ってきていた。数十頭の生まれたばかりの子山羊・子羊がとても可愛らしい。おばあさんが作ってくれた熱いスーテーツァー(ミルク茶)とウオッカで体を温め、ゲルの若者2名が馬に乗り、狼が時たま潜んでいるという近くの茂みに出かけたが何も飛び出さなかった。
 再度ゲルに戻り、買ってきた骨付きの牛肉の塊を、ゲルの真ん中にある暖炉に大きな釜をのせてゆでて、我々の夕食となった。ソースは、ニンニクとねぎと塩だけで作ったもの。各人ナイフで骨から肉をそぎ落として食べるのだが、味は上々だ。勿論ゲルの家族7-8名も一緒の夕食で、モンゴル流のおおらかなもの。手が油だらけになったが、回ってきた布巾は真っ黒に汚れて雑巾のようなので、自分のマフラーで手を拭いた。ローソクの明かりの中で、良く見るとさっきのおばあさんがスーテーツァー用の誰かが使った茶碗をきれいになめて、さっきの雑巾でふいて私に渡してくれた。あきらめて「ザー(どうも)」と言って、ツァーを入れてもらって飲んだ。水が貴重品の遊牧民には、これが普通のもてなしだ。
 夕食が終わったら9時を回っていた。12時頃までゲル内で仮眠して、狩をしながらウランバートルに帰るという。闇の山中をどうやって運転するのか・狩が出来るのか想像もつかない。予定の出発時間となり、案内人達が車のバッテリーにサーチライトの電線をつなげ終わって、出発だから銃に弾を詰めろと言う。全く状況判断が出来ないまま、付き合いだからと弐連銃に散弾を詰め、ゲルの住民に挨拶をして出発となった。
 後部座席に座った案内人がサーチライトをあちこち照らして、動物の眼の反射をめがけて撃てという。反射光の色で何の動物か判るというが、私には何も見えない。途中車を止めて仲間が数発撃った。獲物は大きなハゲタカが一羽。誰かが神の使いを撃って不吉だと憤慨していた。そのうち私の車のヘッドライトに照らされて動物が逃げるのを見た。ウインドウを下ろして撃てという。
 適当に撃ったらまぐれ当たりで、白い毛の狐を射止めた。猟に出た仲間の眼は、仕事中には見せない男達の目だ。こちらも日本男児としての闘争心が出てきていたので、狐には可哀想だったが面子を保てたと思った。ウランバートルに戻れたのは朝の3時。道なき道の闇の中を良く無事に帰れたものだ。
 馬に乗っているとき・狩をしているとき等のモンゴルの男たちは逞しく生き生きしている。それに反し事務所で仕事をしている時の彼らは、丘にあがった河童のようにも思える。

表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(17)−モンゴルと品質管理
2006年3月30日
 (会社運営3) 数年前、勤務先大学・経営学部の伝言板にキリル文字で「カイゼン」と書かれているのを見て、何のことか聞いたら「品質管理・カイゼンセミナー」と言われ、ちょっと驚いた。モンゴルに対して失礼だと思うが、この国と品質管理は無縁だと思っていた。

 モンゴルに数日滞在するとすぐ気付く事だが、物が曲がっていたり、整然と揃ってなかったり、壊れたままになっている事が多い。例えば部屋のプラグの差込み口、大体全部斜めについていて、幾つかあると半分は使えない。差し込んでも電気が来ないか、手で押さえていないと使えない。多くの階段は最後の段だけが高いか低いかのどちらかである。お土産の工芸品など同じはずの品物でも大きさ・色などは少しずつ違う。

 写真の建物は、私の見つけた傑作である。窓枠が波打っている。しかも全体が向こう側に下がっていて、その分窓枠も斜めになっていた。どことなく遠くの山々と調和している気さえするのは、私のモンゴルボケのせいだろうか?興味を持って調べてみたら、コンクリートの土台もその下の地面も同じように波打っていた。つまり、地面を水平に地ならししないで、土台を作って建物を建てたらしい。ちゃんと地ならしした方が全体の工事は楽なはずなのに、土を掘起こすことを嫌う遊牧民文化のせいだろうか。

 モンゴル人に、何故物を水平か垂直に揃えないのか何回か聞いてみたが、何故揃えるのかとけげんな顔をされ、質問の意味を判ってくれるのは外国に滞在した経験のある人達だけだった。私が今までに訪問したどの国でも物を水平か垂直に揃えるのが当たり前であったから、やっぱりこの国は特殊だ。モンゴル人から納得出来る答が得られないまま、自分で考えた結論はこうだ。

モンゴルの広大な自然で垂直なものはない。平原で見る電信柱は全部斜めに立っている。水平なものは地平線だけだ。それだって、この国では珍しくない180度以上の広がりになると、水平とか直線の感覚ではなく、地球の湾曲をはっきり感じ、大きなボールの上に自分が立っているような錯覚を覚える。ゲルだって丸いし、地面に沿って少し傾いているのが普通。ゲルに一つずつあるドアの柱、ある有名ホテルが経営するテレルジのゲル・キャンプで、並んでいるゲルを調べてみたら上部が内側に傾いているのと外側に傾いているのと両方あって垂直なのは無かった。この国にもともと水平・垂直の概念はなかったに違いない。

駆け出しのラジオ少年の頃にラジオ屋の親父に、私の配線は“うどん”配線だとか言われ、それ以来なけなしの小使いで買った貴重な銅線を、勿体ないと思いながらもシャーシに対して水平か垂直に配線するようになったのを思い出した。余分な物を持たない・自然の恵みは無駄にしない遊牧民の尊い文化では、A点とB点を結ぶ最も合理的な方法は勿論直線だ。スイッチなどきれいに並べなくても機能は果たせる。モンゴル3年で出た答えは−水平・垂直思考は作られたもので世界共通ではない。

ホテル各室のプラグ差込口も、半分は機能していないことに気付いた。10年前の品質のまだ悪い頃の中国品を使ったせいもあるが、全部直そうと補修担当者と打ち合わせしたら、各部屋1つ使えれば十分でそれ以上交換するのはもったいないと言う。建設時に日本人技師が顧客の便利さを優先して、無駄なものを付けたのが悪いのだと。余計な経費を使わない習慣は尊いが、物に溢れ・便利さに慣れ過ぎている国からのお客様が多いし、議論していても噛み合はないので、今年は各部屋の修理必要箇所を、全部自分で調べて指示することにした。

しかし、この仕事のやり方だと毎年自分で全室チェックしなければならない。JICAの先輩達が、「モンゴルでは無理に変えさせると、変えさせた本人が居なくなれば全部元に戻ってしまう」と言っていたが、今の会社では「私が居なくなったら止めるようなカイゼンは、初めからやらないでくれ」と頼んでいる。
やっぱり、この国で品質管理を根付かせるのは容易ではなさそうだ。日本が120%の完ぺき主義だとすると、モンゴルは本来の機能が満たせれば十分な70%主義だと言える−勿論彼らにとっては完ぺきな100%だが。

表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(16)−モンゴルでのハラハラ
2006年3月15日
 (会社運営2) 3月も中旬になると、この極寒の国にも春の到来を感じる。新緑こそまだ無いものの、解け始めた街中を流れるトーラ川の氷、並木の新芽、減り始めた外輪山の積雪、特に人々の服装と歩き方に。今週末は郊外のゲルで過ごそうと思う。ストーブの薪火を眺めて心の安らぎを感じ、外に出て満天の星に感動を覚える。神秘的なまでの静寂のなかに、狼の遠吠えだって聞こえる事もある。朝方は傍を横切る馬の群れの息使かいで目を覚ます。日本では決して味わえない、私にとっては最高に贅沢な週末だ。

  わが社の動きも、夏の観光シーズンに向けて、活発になってきた。設備の修理と改装、社員の教育。国中のホテルがほぼ満杯になる7月のナーダム祭時期の予約の入りも今年は出足が早い。毎年増え続ける観光客、今年はモンゴル建国8百年記念の色々な行事のせいもあって、大きな伸びが予想されている。日本の映画会社による、大掛かりなジンギス・ハーンの映画撮影も始まるし、5百頭の騎馬隊によるショーも郊外の平原で企画されている。

  仕事の進め方で、ハラハラさせられる時期の始まりでもある。尤も、昨年末からどうして今年の準備を開始しないのか、既にイライラしていたが。工事にしても日程表などまず出て来ないし、遅れていてもこちらから聞くまで報告はないのが普通。当社は日系企業として10年の歴史があるので、社員はかなり日本式に慣れているが、外部の業者はそうではないし、期限を守る意識も違う。

例えば昨年11月に決めた投資案件と割り当て予算計画書、見直しを2月に行うと決まっていた。5月完成予定案件位は、各プロジェクトの担当者が当然業者の見積もりを取っているだろうと思っていたのが甘かった。業者に全く当たっていないケースも多い。彼らは、あと3ヶ月あるので心配するなと言う。納期はOKとしても、「予算をオーバーしたら如何するのだ。」と聞くと、予算の範囲でやらせると言う。「じゃあ、品質が犠牲になる可能性は?」となっていくが、そもそもこういう発想の仕方がモンゴル的でない。


ウランバートルの新しいオフィス街。手前の建物は2年以上前に完成したが未だ使は れてない。何事も計画を練りに練って進める日本では考えられない光景。

イライラしても相手には通じないし、ハラハラしながら任せるより他ないと思うのが、モンゴル3年目の心境。1年目は体重もずいぶん減ったが、もう元に戻って安定している。モンゴルのスタッフが私と仕事をして、体重が減った話は聞いたことがないので今は互角の勝負だ。こちらの見方をおおらかにすれば、モンゴルでの仕事も楽しい。

少なくとも会社・官庁で働くほとんどのモンゴル人は、非遊牧民的に生まれ育ち、ラテン系の血を持った東欧人だと、私は思っている。日本人の論理的発想回路は彼らには無縁。直感的・感覚的、あとは好きか嫌いか。モンゴル人が間違っているのでなく、日本人がおかしいと思うこともあるが、彼らは産業社会向きではない事は確か。計画的ではないが、最後の追込みは凄い。似て非なるもの、それがモンゴル人と日本人。面白味があって愛すべきは、間違いなくモンゴル人。彼らにとって日本人ほど退屈な国民は無いに違いない。
モンゴル人の弱いところを補うのも、この国での会社運営。わが社はサービス業なので彼らの強みを生かせるが、製造業だったらどうすれば良いのだろう。

表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(15)−モンゴルでの戸惑い
2006年2月28日
 この国で戸惑うことの一つが約束と時間感覚だ。今日も約束をすっぽかされた。以前勤務していた大学のモンゴル人から午後に訪ねてくると朝電話があり、6時まで待ったがとうとう現れなかった。恐らく数日後に今度は予告なしに訪ねてくるのだと思うが、来ない場合だってある。もう慣れっこになっているので何とも思わないが、モンゴルに来た当初はずいぶん驚いた。

 大体アポイントを取る習慣がないのに、相手が外国人だからと朝電話をくれるだけ有難いと思うようになった。恐らく、電話した後に急用が出来たか、何軒か回っている間に話し込んで遅れたので来るのを止めたのだろう。

 こちらは長年の時間厳守の習慣は守り通しているが、特に官庁関係などは翌日のアポを取ろうとしても、当日の朝電話をくれと言はれる事が多く、その朝確認を取っておいても、出かけていない場合が結構多い。相手方にメリットのある打ち合わせでも同じである。モンゴル人はこの様な場合のんびりと1-2時間でも待つ場合も多い。正式な会合でも1時間位い遅れるのは定刻の内。

 社内でも同じ事。部下に何時何時までと仕事を依頼しても、定期的にフォローしないとだめ。今回の赴任当初、秘書に1週間分の仕事の計画について打ち合わせしていたが、全く意味がなく毎朝その日の仕事を依頼するように変えた。

 今まで色々な国で仕事をしてきたが、モンゴル人の時間と約束に関する感覚は経験した事がない。例えばフランス人は時間を守らなくても約束は守る。よく言えばモンゴル人のおおらかさはスケールが違う。草原の民の2千年余にわたる習慣から来ているのだろう。隣のゲルまで数キロ以上ある場合も多く、今でも携帯電話など使えない地域が大部分。バイクもかなり普及してきているようだが、まだまだ隣近所への連絡には馬で出かけるのが普通と聞く。


冬のモンゴル草原 by R. Enchbat

表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(14)−冬のピクニックと優雅な引退生活
2006年2月11日
 真冬の土曜日会社の若者達のピクニックに同行した。数日前に週末の気候が良さそうなので急に決まり、バス2台と乗用車数台でウランバートル南方20キロのナイラムダルUB SKI場へ。夏場は草原で放牧された動物しか来ない処だ。
レストラン兼スキー・スノーボード等の道具を貸してくれる建物以外何もない。勿論リフトもない。写真の左方向数キロ離れた所はゴルフ場、右方面に十数キロ行くと子供用の国際村がある。この国際村は外国から団体で子供たちが長期間滞在出来る宿泊施設がある。ゴルフ場には夏に数回行ったことがあるが、9ホールコースで週末でも十数名しかプレーしていなかった。高台の小さなクラブハウスから全ホール見渡せる、広大なモンゴルならではのレイアウト。放牧の動物たちが横切る事もありそうだ。


ウランバートル南方20キロのナイラムダルスキー場でのピクニック。向かって左
側に数キロ行くと韓国系のゴルフ場、右側の数キロ遠方に十数件の別荘が見える。

ウランバートル南方20キロのナイラムダルスキー場でのピクニック。向かって左側に数キロ行くと韓国系のゴルフ場、右側の数キロ遠方に十数件の別荘が見える。
 写真右上の山の麓に見える別荘地は2年前にはなかった。恐らく3−5百万円以下で買えるはず。ウランバートルのアパートに住んで、週末を過ごすには最高だろうが、乗馬かゴルフをする以外何も出来ない。備え付けのデイーゼル発電機はあるが、水は水売りから定期的に購入するのが一般的な設定。モンゴルが教えてくれたすばらしいシンプル・ライフには最適だろう。私にはまだまだ耐えられそうもないが、毎年自国で数ヶ月、あとはモンゴルで過ごす今までに出会った欧米人・日本人達の優雅な引退生活が目に浮かぶ。モンゴルに来たことのない人には判らないだろう。私には常夏の国で余生を送る生活よりずっと刺激に富んで魅力的に見える。過去の延長線上で生きる世界ではない。貧しくとも自然が豊かな頃の日本を思い出すが。
 話が横道にそれたが会社のピクニック、サッカーをしたり男性たちはモンゴル相撲をしたり、ウオッカを飲みホーショール(肉とねぎなどが入った揚げパン)の昼食を楽しんで一日を過ごした。スキーをしたのは誰も居なかった。この日の朝はマイナス20度C前後、昼間は恐らくマイナス10度前後で無風。モンゴルに慣れるとこの温度範囲だと寒さは全く感じないどころか、初秋の軽井沢の朝を思い出す。日本に住んだことのあるモンゴル人は、東京の冬の方が寒く感じるというが同感だ。強い日光と極端に低い湿度のせいだろう。

表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(13)−お正月
2006年1月31日
 旧暦のお正月を祝うモンゴルでは今日まで4連休。モンゴル民族の遊牧生活は紀元前から続いているが、ツァガーンサル(白い月)と呼ばれる行事は、7月のナーダム祭の次に大事な行事で13世紀に溯るという。
 年配者は皆民族衣装のデールを着て、親戚・家族が集まり、年配者・尊敬する人の家を訪問して過ごす。食べ物は蒸した羊肉と中華料理のショーロンポーと同じような羊肉の入ったボーズ、乾燥した乳製品が中心。家ごとにボーズは数百個から千個以上作って外に置いておき、必要に応じて蒸して食べる。皆が、訪問先でもたらふく食べることで佳い年になると言う。

訪問先の、百歳翁を筆頭に四世代揃ったモンゴル人家族

私もモンゴルの習慣に従い、今日はウオッカを持って数軒訪問した。その内の一軒は百歳のカクシャクとしたお爺さんのおられるアパート。平均寿命が60歳前後のモンゴルでは珍しい長老で、昨日は大統領も敬意を表しに訪れたそうだ。モンゴルは年配者が大事にされる国。私も、まずアムラノー(お元気ですか)と敬意を表する挨拶をして、スーテーツァー(牛乳と茶を沸かした飲み物)・ボーズなどを頂き、ウオッカを飲みながら雑談をして過ごした。ボーズは慣れると結構うまい。羊の肉はきらいではなかったが、モンゴルの羊は独特の強い匂いがあり最初は大分苦労した。食べた後は口中に脂肪が残っているように感じるが、ウオッカを飲むとすっきりするし、マイナス35度Cの外に出ても寒さを感じない。ウオッカを良く飲む国民性が理解出来る。先週、ロシアのサーカスがウランバートルで開催されていて、タイ象の出し物があり、象の寒さ対策として毎日2リットルのウオッカを与えているとの新聞記事があった。
 モンゴルには日本の古い習慣に似たのがいっぱい残っている。ツァガーンサルの行事にしても、日本の正月料理がボーズに、酒がウオッカに変わっただけで、昔の正月三が日を思い出し、全く違和感がない。

ツァガーンサルのゲル内。テーブルにはモンゴル料理が並び、
子供達も両親・年配者ににアムラノーと挨拶をする。

表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(12)−冬のウランバートル
2006年1月15日
ウランバートルは世界で一番寒い首都と呼ばれている。今朝の気温はマイナス34度C、快晴で日中はマイナス20度C前後で、年間で一番寒い1月の典型的な気候。建物は全て火力発電所から供給される熱湯で暖房が施され、外に出ない限り夏姿でも快適。勿論外出の際は、毛皮のコートと帽子、厚手の手袋、それから底の厚い靴は欠かせない。風が吹かない限り、顔と耳は痛くなる程冷たく感じるが、30分程度であれば湿度の高い日本のような寒さは感じない。

ほとんど毎日が快晴で、雪は余り降らず、日本の雪国のような暗さはない。多くのモンゴル人は結構冬が好きな様で、サイハン・ウブル(素晴らしい冬)と呼ぶ。私もモンゴルの冬は嫌いではない。積雪も大体5センチ程度で、春先まで解ける事はなく、町は静けさがあり、中高年の女性達がモンゴルの衣装デールや黒色の長めの毛皮のコートとブーツに帽子をかぶって、襟のあたりに派手なマフラーをちょっとのぞかせて堂々と歩いている姿を見る度に、彼らは冬しか出来ないお洒落を楽しんでいると感じる。

遊牧民にとっては確かに冬は厳しいに違いない。秋から家畜用干草の確保に始まり、冬でも日中は放牧させ、夜は彼らを囲いの中に集めて、少しでも寒さを凌げるようにし、夜中でも狼に襲われないように警戒をおこたれない。それでもマイナス40度C以下に気温が下がり、風が強いと大量死を免れないし、狼による家畜の損失も現実だ。

4年前初めてモンゴルに来た時、一番寒い時期に数人の仲間とウランバートルから西南に百数十キロ離れた所に野生馬(タヒ)の観察に出かけた。四輪駆動車で雪の平原を突っ走り、氷の河を渡り目的地のゲル・キャンプへ。夜はゲルに泊まり一晩中3人が交替で炉に薪をくべて過ごしたが、夜中に外に出たときの寒さと満天の星空の美しさは忘れられない。翌日は地元のモンゴル人の案内でタヒの群れ探しのドライブ。途中立ち寄った遊牧民の住居地では、射止めた狼の凍結死体があった。家畜の群れは近くに見当たらなかったが、大きな番犬のモンゴル犬が数匹と生まれて数ヶ月の子犬と子羊達が4、5匹ずつ元気に遊んでいた。あの寒さの中でと驚いたが、子羊達は可愛いそうなので夜はゲルの中で人間の子供と一緒に寝るのだという。日本のペットブームでは、犬猫達が人間の生活文化に合わされているのに対し、こういう光景からモンゴルでは人間と動物がもっと一体となって、人間が動物の生活に合わせている感じを受ける。
このような冬の旅もモンゴルならでの魅力だと思うが、住んでいないと気が付かない。仕事先のウランバートルのホテルロビーで、真冬の早朝、ヨーロッパの若者男女のグループを時折見受ける。ホテルでは、朝食とシャワー設備だけを使い、安いゲル・キャンプに宿泊しながら2−3週間の田舎の旅を続ける。日本人旅行者には見当たらない旅の仕方だ。日本では幻の魚といわれるイトウ釣りの2−3人のグループ、12月の末でも毎週末テレルジの丘陵で乗馬を楽しんでいる日本人等は居るが、数メートルの氷が一面に張るフブスグル湖への旅は日本からの参加は皆無のようだ。


冬のウランバートル郊外の午後、積雪5センチ、快晴、気温マイナス20数度C。
ダイヤモンドダストが時々見られる。

表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(11)−産業とビジネスチャンス6
2005年12月25日
農畜産業−今回でビジネスチャンス・シリーズを終わりたい。このシリーズでカバーしてない分野でも勿論チャンスは色々考えられる。例えば、観光産業用道路・空港等インフラ整備の土木関係、通信網整備やユニークな発想を持ったモンゴル人が活用出来るソフト開発等々。

放牧飼育されている大型動物(牛・馬・らくだ・ヤク・羊・ヤギ)は3千数百万等で長年安定している。どの動物もアメリカの食用牛(9千万頭)・ニュージーランドの羊の頭数等に比べたら桁違いに少ない。降水量、遊牧方式と極寒の冬の関係でこれ以上の増加は出来ないらしい。バランスも重要で、以前にカシミアの値段が高い頃牧草の根まで食いつくすヤギの比率を上げたら、草原の砂漠化が進んだという。皮革・馬肉・牛肉・カシミア・乳製品などは輸出されているが、内臓・脂肪分などは天然資源としてほとんど活用されていない。らくだの毛は毛布・セーターなどの防寒用に利用されているがヤクの毛はもっと活用出来るはず。広大な自然を活用して、例えば漢方薬に使われている寒冷地域動物の飼育や、モンゴルに無数に繁殖している大型リスの一種タルバガンの脂肪(モンゴルでは長年薬効で知られている)の活用等もあると思う。

モンゴル人は農耕民族ではない。土を掘ることを極端に嫌うが、ソ連邦の一員であった十数年前までは、今はほとんど使われていないコルホーズの農地で麦・ジャガイモ栽培などが行われていた。今は野菜・果物はほとんどが中国からの輸入であるが、都市近郷でのきゅうり・人参などの小規模な野菜栽培が始まっている。きゅうりは古い日本の品種を思い出すし、小型で黄色いジャガイモの味は日本の品種と太刀打ちできる。

日照時間が長く有機質と降水量の少ない土壌環境に合う作物は色々あるはずだ。4-5年前に日本の種子会社の事務所がウランバートルにあったが、原種の採集か、F1種子の製造が目的だったのかは知らない。700種を超えるといわれるモンゴル薬用植物のごく一部の栽培は行われているようだが、企業化は今後の課題。漢方医療はソ連邦の時代に奨励されていなかったので、チベットの流れをくんだモンゴルには未開拓のチャンスが結構あると思う。

ヨーグルト・チーズなどの乳製品は、勿論モンゴル品が広く出回っているが、輸出製品ではない。ロシア・東欧製品も市販されているが、日本とのビジネスの可能性については不明。モンゴルは太古の時代は海の底だったそうだが、未踏にちかい西端の含塩湖地域の微生物などの調査は終わっているのだろうか。モンゴル中がまだ有用微生物の宝庫ではなかろうか。カルピスはアイラグ(醗酵馬乳酒)を日本人が、今から百年も前に持ち帰って開発されたと聞いている。

表題に戻る


元山芳彰のモンゴル報告(10)−産業とビジネスチャンス5
2005年12月16日
観光産業−先日ウランバートルで観光フェア(Great Mongol 800)が開催された。来年はジンギスハーンがモンゴルを建国して800年目に当たり、年間を通じて色々な行事が計画され、観光ビジネスの盛り上がりが大いに期待されている。出展はモンゴルの会社が中心であったが、お隣のロシア・イルクーツク州からの参加もあった。(イルクーツクにはバイカル湖があり、日本人の祖先のブリヤード人が多く住んでいるところでもある。)


目立った出展は、外国人観光客用の数々の新しいゲル・キャンプ。ウランバートル国際空港から100−300キロ離れた、周りは自然だけに囲まれた新しい施設。四方に地平線が見える平原、ゆったりと流れる川のほとり、岩山に囲まれた古い温泉保養地、その多くは平原を四輪駆動車で半日以上走らないと辿り着かない処にある。テレルジ・ハラホリン・ゴビ砂漠等のように観光案内書にはまだ載っていない町から離れた場所にあり、来年がモンゴルの観光元年と呼ばれるに相応しい新しい傾向だ。

 モンゴルに数年住んで分かった事だが、この国の本当の魅力はこのような辺境地にある。全く音のない自然の広がり、遠くに見える馬・羊・らくだの群れ、夜はこぼれるばかりの星空、余分なものは何もない素朴なゲルでの滞在も意外に快適だ。しかし一週間以上休暇の取れない人、電話とメールから開放されない人、快適なホテルが不可欠な人達には不向きだ。
 現在の外国人観光客は年間30万人程度で、日本人はわずか一万人強で、韓国人の半数。韓国と日本の往復客のわずか一日分で、年間一千万人以上と云われる海外旅行者のわずか0.1%にすぎない。ネックはモンゴル航空の高い航空運賃、米国・欧州ならビジネスクラスで行ける料金。しかもモンゴル一国だけの旅行パックが中心。
 昨年当たりから、シベリア航空を使って、新潟−イルクーツク経由でモンゴルとバイカル湖半の旅行セットとか、中国の航空会社で北京経由の中国とモンゴルのセットのパックも出て来きている。新規にモンゴルを扱う旅行社も増えつつある。30代の女性中心に癒しの国としてモンゴルの人気が出だしたとも聞く。引退された方々には夫婦で数ヶ月滞在するのもすばらしいと思う。毎年来るようになる人々も多くなると確信している。北京からモスクワ行きの列車の旅もすばらしい。ウランバートル迄一日半、イルクーツク迄更に一日半。数年前にウランバートル−イルクーツク間を寝台車で旅したが、行きの列車にはモスクワまで5日掛けて行く日本人が一人、帰りの列車にはモスクワから乗ったヨーロッパ人が沢山乗っていた。

 まだ手付かずのウランバートルの北東のジンギスハーン生誕の地とされるダダル方面、西端の4000メートル級のアルタイ山脈方面への旅も魅力的だ。日本から見たビジネスチャンスは、新しい旅行パッケージの開発と顧客の開拓か。ゲル・キャンプへ投資している、或いは計画している日本企業もあるが。今は国営のモンゴル航空への投資・買収も可能と聞いている。これが実現すると、モンゴルにも世界中の旅行者にも朗報なのだが。

表題に戻る


元山芳彰のモンゴル報告(9)−産業とビジネスチャンス4
2005年11月30日
鉱物資源など−今日はモンゴルの友人が投資している炭鉱の見物に出かけた。ウランバートルから東へ40キロ行くと、石炭の町として知られるナライハ。昔の西部劇映画に出てくるような、木の一本もない殺風景な町に見えた。旭天鵬の故郷で、戦後多くの日本兵が捕虜として石炭の採掘にあたっていた事でも知られている。
車で町を横切って10分も行くと、砂漠の様な平原に直径3−6メートルの穴が斜めに幾つも掘られている。炭鉱の入口で、30−50メートルの間隔で何十とありそうだ。よく見ると各入口の傍にゲルも散在し、掘られた石炭が積まれている最中のトラックも見えた。友人の案内で、彼が投資しているブロックに着くと、顔が真っ黒で眼光の鋭い男たちが7−8名炭鉱口から出てきた。10メートル程の深さ迄掘り進み、今度は石炭層の中を横に掘り進んで行くという。
 木の骨組みを作りながら100メートル位までは横穴で掘り進めるそうだ。石炭の質は黒光りしていて良質で、以前ウランバートルの火力発電所で見た褐炭とは全く違う。全てが手作業で、地表から掘り始めて2週間経っているが、今週中には石炭の出荷が開始出来ると言う。

 ゲルの暖房用に必要な来年の春先までの採炭権を取得するのに、友人が4百ドルと、炭鉱口から出てきた連中が5百ドル出資し、毎日掘り出される石炭のうち最初の中型トラック2台分が友人の取り分で、あとは男たちが彼らの働きと投資額によって山分けするのだそうだ。買出しのトラックは列を作って待っている。彼らは中型トラック一台分を4万5千トグルグ(約4千5百円)で買取り、町のザハ(市場)に運んで7万トグルグで売るという。ザハでは小分けされ4割位アップの値段で販売されるのだそうだ。春先の期限までは掘り放題で、私の友人は投資だけで2000ドル以上のリターンを予想していると云う。あとの連中は働き具合によって4倍から6倍以上のリターンが期待出来るそうだ。なるほど彼らもやる気十分のはずで、モンゴルらしい商売のやり方だ。自分達で組み立てたゲルに寝泊りし、毎日12時間以上働いているらしい。

 数年前に、砂金採集で同じような話を聞いたことがある。まさにアメリカのゴールドラッシュ時代のようだ。レンガ作りでも同じような話があり、モンゴルの建設ブームに支えられて、中国製のレンガ製造機を2千5百ドルで購入し、郊外のレンガ原料のあるところで製造すると、生産現場に一個450トグルグで買い手が持って行くそうだ。友人は石炭採掘仲間と来年4月から夏にかけてその仕事を計画しているという。投資の誘いがあったが、石炭採掘ならともかくレンガ作りは遠慮した。本気なら仲間の一人位は今からレンガ工場で働き始めるようアドバイスしておいた。アパート建設に投資すれば1年で2倍にして返してくれるという誘い話も何回かあった。資本蓄積のない国なので、現実味がある。モンゴルで出会ったアメリカ人の石油採掘専門家で、引退後モンゴルに技術指導で来てそのまま居残って自分で石油採掘を始め、数ヶ月前に設備・権利を中国に9千数百万ドルで売った75歳の男が居る。急成長を続ける日本のソフト会社のモンゴル版か。

 話をもとに戻すが、モンゴルには石炭以外に、銅・金・ウラニウム・鉄鋼石・石油・タングステン・モリブデン・燐鉱石など80種類の天然資源が6千箇所位で確認されているそうだ。そのうち調査が終わっているか実際に採掘が行われているのは160箇所程で、これ以外にもセメント・化学原料になる良質な砂(珪砂)など無尽蔵に近い資源も多い。とにかく十数年前までの社会主義の40年間、ソ連邦は肉と毛皮だけの輸出をモンゴルに割り当てていたらしく、資源開発は放置状態に置かれていたようだ。

表題に戻る


元山芳彰のモンゴル報告(8)−産業とビジネスチャンス3
2005年11月15日
産業について−ウランバートルはもう冬。今朝はマイナス15度前後で、葉の落ちた街路樹越しの山々はかすんでいて透き通った冬の空気ではない。内陸性気候で湿度は極端に低いのだが、山裾に無数密集するゲルで燃やす褐炭などの燃料の煙が、風のない盆地に充満しているせいだ。

モンゴルの基幹産業は鉱物の加工輸出と観光。世界の産出量の4分の1を占めるカシミア製品などの動物加工産業は国内では重要でも輸出貢献度は意外に小さい。今年1-8月の輸出統計を見ると、濃縮銅鉱石・金などの貴金属と宝石などが輸出額の上位を占めている。日本の資本が製鉄用無煙炭の開発を進めている。中国と日本の鉄鋼メーカー用で3000億円の投資になる、モンゴルではGNPの2倍にも相当する大型プロジェクト。今はロシアに依存している石油の探索も進んでいるが、未開拓の膨大な資源開発はほとんど手付かず。内陸で未発達の輸送網がネックになっているのだが、中国人がモンゴル人を「金塊の上に座っている怠け者」と評するのも肯ける。

昨年カシミア工場と皮なめし工場を見学した。カシミア工場は日本製とドイツ製の最新機械が導入された驚くほど近代的な工場だったが、独自のマーケテイングが無いために、日本の衣料メーカーの下請けで値段はたたかれビジネスとしての魅力に欠けるものだった。一方皮なめし工場はロシア製の老朽化した工場で、薬剤こそドイツ製とスイス製だったが、品質管理のレベルは非常に低く、日本などへの輸出はゼロ。出来の良いのを選べば2割くらいは日本の皮加工メーカーも使えるというのだが、中国のバイヤーは安くても全品買い取ってくれるので、日本への輸出は値段が高くても、モンゴル側も興味を示さなかった。

製粉・セメント・レンガなどと、最近はビールの現地産業がビジネスとして成り立っているのは肯けるが、ちょっと値の張る工業製品は輸入品に対抗できない。必要な技術導入はロシア・東欧と中国・韓国の技術が中心。日本の大手はこの小さな国内マーケットには目もくれない。

モンゴルの立地条件に適した、輸出用の食肉加工・・長い伝統のあるチベットの流れをくむ漢方薬と薬草栽培などの加工度の比較的高い産業が芽生えてきているが、市場を知り技術と資本を提供できる先進国のパートナーなしには育たないであろう。ここに大きなギャップが存在している。中国のように資本が豊富であれば、技術を身に着けた日本の技術屋OBも活用出来るのだが。数年前に日本の大手旅行会社がモンゴルの投資銀行を買収した。日本の安い資金をモンゴルのベンチャー育成に活用してくれればと願っている。ちなみにモンゴルで銀行借り入れするとUSドルでも金利10−12%、現地貨幣トグルグだと20%で、しかも短期のみ。銀行が集めた資金はほとんど国債買い付けに使われている。ベンチャーキャピタルには魅力的な市場かも知れない。その流れをくむ銀行が一行だけある。

表題に戻る


元山芳彰のモンゴル報告(7)−産業とビジネスチャンス2
2005年10月30日
市場について(続)−今日は、厳しい冬に備えて帽子を買いに出かけた。モンゴルで買ったほうが安くて良い物も多い。町には製品が溢れている。中国製でも品質・デサインともに日本に出回っているものに引けを取らない。粗悪品の多かった4−5年前とずいぶん違う−中国メーカーの市場対応力か。おそらく先進国の指導で作られている製品のブランドを変えただけの、先進国向け製品と同じものが売られているに違いない。

  モンゴルの生活水準は日本の1950年代だろう。平均給料の統計は見当たらないが、高卒初任給で月8千円、30歳代の大卒中堅職員で1万5千円程度。失業率は非常に高い。生活レベルは、街頭テレビで力道山のプロレス中継に人だかりが出来ていた頃の日本を思い出すが、浸透するコンピュータ化・情報化と急激に進む消費文化。ここに日本の50−60分の1程度の国民平均所得の統計データでは考えられないビジネスチャンスが出てくるのだろう。

  日本では聞いたことも無い日本語ブランドの家電製品は、品質も日本製品並み。価格は韓国製品より高めだが、モンゴルの裕福層には手の届く価格設定がなされている。日本の有名ブランドで、明らかに発展途上国用に開発されたプリンターもある。自分も百ドル弱のモデルを買って使っているが、スピードはスローでもプリントアウトしてみると驚くような性能だ。勿論このモデルは日本では売られてない。発展途上国のハンデイキャップをますます高くしている先進諸国の情報化の中で、これらの国の為にもなるきめの細かい商品戦略。OSとアプリケーション・ソフト一式の安い海賊版はちゃんと出回っている。高い企業モラルの染み込んだ自分でも、彼らをせめる気にはならない。それを可能にしたモンゴルのコンピュータ技術レベルに乾杯だ。

  モンゴルに住んでいなければ分からないビジネスチャンスは多い。大企業では目の届かない小さな市場。大きな市場では競争にかなわない企業・商魂逞しい面々には魅力的な市場だと思う。カジュアルウエアーを例に取ると、ウランバートル最大のショッピング街のバヤンゴル地域でも、日本の戦後のヤミ市と同じザハでも1−2坪の小さな店がひしめき合い、同じようなものを中国からまさにかつぎやのおばさん連中が買出しに出かけて店に陳列している。良いと思ってもサイズの合うのがない。同じサイズでも2つは買えない。値段は日本に比べても安くはない。すぐに流通変革の波が押し寄せるのも間違いない。

日本の有名大量販売ブランド店の権利をもらって3−4軒大型店をモンゴルに出したら成功間違いないだろう。若干安いモンゴル用価格で出荷してもらうか、中国の製造元から直接ブランドを変えても仕入れ出来れば尚良い。日本と同じ製品というだけで売れる品質の信用度は十分浸透している。日本食はモンゴル人には合わないが、日本で人気のイタリアンレストラン、牛丼チェインでも同じだと思う。KentuckyもMacDonaldもない(MonDonaldという現地ブランドはある)。画一的すぎる大手の企業戦略では参画しにくい市場だ。

表題に戻る


元山芳彰のモンゴル報告(6)−産業とビジネスチャンス1
2005年10月16日
 市場について−今朝は6時半から1時間ウランバートルの街中を散歩した。日曜日で人影もなく、顔は強張る程冷たくなったが清々しい夜明けだった。朝食後はすぐこの報告作成に取り掛かった。
今回から数回にわたって表題について報告したい。得意な分野だ。

 モンゴルは長い社会主義の時代から生活必需品はほとんど今のロシアと東欧からの輸入に依存していた。それが今はほとんど中国品と韓国製品に変わっている。慢性的な輸入超過の経済構造で、日本の経済援助が収支バランスの是正に大いに貢献している。街中には車が溢れている。ほとんどが韓国車で、日本車は人気の四輪駆動車が古いロシア製のジープにまじって時々出くわす程度。

 街中の建築ブームは数年前から続いている。ウランバートルの住宅不足は深刻で、すでに百万を超える人口増加に追いつかない。国連の援助で、安い住宅を4万戸建てる計画もあると聞くが、都市外輪山での簡素な白いゲルが増えていく様はすごい。アパートの建設もすざましい。簡単な土台にただ赤いレンガを積んではセメントの板を乗せてまたレンガを積み上げていく簡単な構造。中国から出稼ぎ作業者による手作業で、東欧の技術で作られたアルミサッシの窓枠がはめ込まれていく。窓枠だけは白い塗装が施された二重ガラスのしっかりしたもので、日本のアルミサッシ製品よりずっと見てくれは良い。日本の建設会社が3千戸の高級アパートと一戸建て住宅からなる新しいタウンを作る計画も進んでいる。

 外国人客が大勢行く韓国系のスーパーに行くと、モンゴル製の肉・乳製品もあるが、大部分の日常品は中国か韓国製品。東欧製のワイン・中国産の日本人向けの米・醤油・みそ・ビールも売っている。ジュースはロシア製が中心で、キャビア・イクラもあるが魚は少ない。

 このような日常生活に密着した分野で、日本食レストラン・パン屋・クリーニング店・タクシー会社などに日本からの直接投資もあるが、モンゴルに関係の深い人々による個人ベースのビジネスが中心。電話線の普及をバイパスして、一挙に携帯電話システムを作り上げ、モンゴルで携帯電話による通信システムを普及させて、事業としても成功させた日本の大企業、郊外に広がるゲルで厳しい冬に使う褐炭の煙公害はひどいが、政府が灯油への切り替えを進めるや、灯油用暖房器具・ボンベを普及すべく進出してきた日本企業など、ルートを辿ると今までの日本政府ベースの経済・技術協力にたどり着くような日系のビジネスもある。ODAの経済メリットだ。しかし、韓国と中国の企業出進のエネルギーに日本はもうかなわない。(続く)

表題に戻る


元山芳彰のモンゴル報告(5)―科学技術と共同研究
2005年9月30日
 9月のウランバートルは街路樹も外輪山も黄金色になる。今日は久しぶりにモンゴル科学技術大学のTechnology Transfer and Patent Centerを訪問し、トムルチュドル・センター長にお会いした。産学協同プログラムを推進するのが同センターの目的だが、特に日本との接点がどの程度進んでいるかを知るため。
 この大学はモンゴルで実際上唯一の総合工科大学(国立)で約1万5千人の学生と7百人の教職員を有する、人口240万人の国としては大きな大学だ。経営学部・日本語を含む外国語学科があることが特色の一つ。国の重要産業を反映して鉱山学部・繊維学部などもある。日本のいくつかの大学と提携関係を結んでいて、教授・学生等の交流が実施されている。
 基礎的な研究は4000人余のスタッフを擁するMongolian Academy of Sciencesで実施されているが、産業に関する実用的な応用研究は本大学とモンゴル農業畜産大学と企業が中心。産学協力を推進するために上記センターが2001年に設立された。大学教授陣はほとんどがソ連で教育を受けている関係で、英語が理解できる人は非常に稀、未だに理工系の卒業生も同様で、海外との共同プロジェクト推進の大きなハンデイキャップだ。教授陣の研究分野と研究テーマは同センターのホームページに記載されている(
www.technology.edu.mn)。
 国内での産学協力はかなり進んでいるが、海外との協力関係はまだ少ない。数年前までは、環境汚染調査の分析業務などが中心だったが、最近は日本のある会社とコンピュータを駆使した金属部品の設計・試作等モンゴル研究者の特徴が生かせるプロジェクトが具体化しているらしい。モンゴルの為にも、より多くの海外企業からのアプローチを期待したい。
 2-3年前の自らの調査では、先端技術については判断できる立場にないが、基礎的な応用技術分野でのレベルはかなり高く、研究設備は非常に古いが先進国の数分の一の資金提供で、ユニークな発想を持つ研究資源を活用できるとの結論であった。モンゴル人研究者を日本の研究開発チームに加えると、今の大相撲のように日本人研究者の刺激にもなると思う。
(写真はウランバートル・サンサル地域から東の町中央を望む。道路の1キロ先には左右に科学技術大学と国立大学があり、講義を終えた学生達の帰り路。)

関連ホームページ
Mongolian University of Science and Technology
National University of Mongolia
Mongolian State University of Agriculture
Mongolian Academy of Sciences

表題に戻る


元山芳彰のモンゴル報告(4)―会社運営1
2005年9月20日
今日は会社の定例スタッフミーテイングを傍聴(写真)。毎週1回の会社幹部連絡会議。モンゴル色としては、女性が8割以上を占める事。チェアマン役の副社長(男性)がほとんど喋り続け、他からの発言は少ないが、連絡事項は前もって彼に伝えられているので、これがモンゴルの特色かどうかは未だ判らない。
4年前にモンゴル科学技術大学に赴任した際に、学生の6割以上が女性であった事に驚いた。ウランバートル市の人口に占める女性の比率は異常に高く、どこへ行っても女性の活躍が目立つ。社会主義の十数年前までは、要職に占める男女比率は50:50に近かったが、自由経済に変革後は徐々に女性比率の増加傾向が続いているそうだ。確かにこの国では女性の方が良く働くし昇進機会も多く、この点では日本よりはるかに開けている。
一般的に女性は非常に辛抱強く、男性は短気。我が社も自然と女性幹部が多くなってしまったらしい。女性でもイエスかノーがはっきりしている事、意見を聞くと自分が好きか嫌いかで判断する傾向が強いのが特徴だと思う。モンゴルでは血液型を1型・2型・・・で表し、日本のような性格との関連づけは無いらしが、国民性としては男女ともB型とAB型の性格集団と信じている。特にA型の性格は少なく論理的な発想は苦手で、強い違和感を与えるようだ。技術屋出身で、出来るだけ数値を使って人を説得する米国式経営に馴れた人間にとって、モンゴル人の説得は新しいチャレンジの一つで未だ試行錯誤の段階。
サービス精神の欠如は長い社会主義の影響だろうが、日本の資本の入ったホテルとしては妥協の出来ない一つだ。保守・修理・整理整頓がもう一つの大きな課題。壊れるまでは修理しないのは社会主義的発想。確かに資源を大切に使う観点からは正解だろう。観光シーズンが始まったばかりの時期に、お湯を送るボイラーの古いポンプが故障した。スペアーはなく中国から取り寄せなければならないとなると、シーズンオフ中の点検整備はどうなってるのだと声も高くなるが、彼らにはまず理解されない。”Don’t fix it unless it aren’t broken.”とか言う米国の古い諺が頭に浮かぶが、外国人客が多いのでモンゴル標準では妥協できない。社会主義の経験の少ない40歳位以下の人達であれば、目標を納得さえすれば自分達で達成出来る能力と意欲は十分あるので、日本に行ってもらって目標となる物を良く観察してもらうのが最も手っ取り早い方法のようだ。年配者は半分社会主義だから説得は無駄とモンゴルで長い経験のある日本人達は言う。準備と計画性については、農耕民族の他のアジア人とは全く異なる。

しかし彼らもやる時にはやる。競争心とプライドは日本人の比ではない。朝昇龍関が良い例、この国民性を活かすのがモンゴルでも会社経営のコツと見た。

表題に戻る


元山芳彰のモンゴル報告(3)―テレルジ
2005年8月30日
 日本からの友人とモンゴル人家族と一緒にテレルジへ出かける。ウランバートルの東北に位置するモンゴル人にも外国人にも人気の静かな保養地。車で一時間も走ると、山に囲まれ清流の流れる平原の入口に着く。そこから平原を走る道を所々に散在し白の映えるゲルキャンプと牛馬の群れを左右に見ながら、更に2―30分走るとジュールチン・ツーリスト・キャンプに着く。コテージとゲルと奥に小さなホテルの建物がある。友人にはホテルの一室を取り、私どもはゲルを一つ借りた。室内には小さなベットが四つ、真ん中にストーブ、あとはテーブル一つと小さな椅子が四つと裸電球一つの典型的な旅行者用の素朴な造りだ。ゲルは馴れると意外に心地よい。
 ホテルのレストランで簡単な昼食を済ませ、皆で馬に乗って散策することになった。キャンプ地から道路を隔てた丘陵地にあるレンタル用の馬が集まっているところへ行き、5歳の子供と道案内役の牧童用の一頭を含め5頭借りた。私の友人にとっては初めての乗馬経験。モンゴル人と外国人では値段が違う。喋らなければ日本人である事が判らないと思われそうだが、馬に乗るところですぐ見破られる。清流や小川を渡り、森や草原をゆっくり散策し、初心者(私を含め)が耐えられる2時間で切り上げた。子供を含む3人のモンゴル人は、馬上の人になると別人のように生き生きとしていた。私はまだ恐る恐るだが、初めての友人も大いに楽しんだようで、翌日の予約をしてゲルキャンプに戻った。
 夜の7時半頃ホテルのレストランで夕食。日帰りで来ていた韓国人団体が帰った後には、駐車場に乗用車が4台だけで、宿泊客は我々を含めて十数名だけ。ゲルの煙突から煙が出ているのが2―3ある程度の静かな夜となる。夕方から降り始めた雨が強くなり雨漏り個所が数箇所あった。幸い布団の上には落ちないので誰も気にしない。気温は更に下がり、ホテルの従業員がストーブに石炭で火を起こしに来た。日本の掛け布団と同じような布団をかけて、私はゲルの屋根に当る心地よい雨の音を聞きながら熟睡し、目覚めたときゲルの中は真っ暗。雨はまだ降り続いている。手探りで身作ろいして、冬用のコートをあおって外のトイレへ出かける。時計をみると5時半で東の空が明けはじめている。吐く息は白い。ゲルにもどりストーブに石炭の火種が残っていたので、薪を2―3本加えた。モンゴル人は朝が遅く、電球をつけるわけにもいかないので、再び寝床へ。
 約束した8時集合の時間が来たがモンゴル組みは誰も起きない。一人でホテルのロビーに出かけたら日本からの友人が待っていたが、従業員が数名椅子で寝ていてレストランは開いていない。友人がどうなっているんだと聞いたが、モンゴルペースに戻っている私には特に感ずる事はない。その内にレストランが開き、モンゴル組みも集まり朝食。雨は弱まったが乗馬はあきらめ、ホテルの裏の清流にそって散策。迎えの車を待って12時頃帰路につく。友人は来年も来たいと言う(モンゴルフアン一人追加!)。
(photo copy right Kozo)
表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(2)―夏のウランバートル
2005年8月15日
ウランバートルもここ数日暑い日が続く。あの清々しい軽井沢と北海道を思わせる本来の夏日はどうしたのだろう。海抜千数百メートルの街でも盆地のせいか、こんな日が毎年1―2週間は続く。しかし朝夕は涼しいし、透き通るような青空にゆったりと浮かぶ白い雲と、遠くでもはっきり見える山々はやっぱりモンゴル。
 厳しい冬と短い夏、その分モンゴル人は夏を満喫するようだ。夏期休暇は一般に2―4週間と長く、田舎に帰る人も多い。若干でも生活にゆとりのある人々は郊外のセカンドハウスで過ごす。とはいっても日本の約三十分の一程度の生産性しかないこの国では勝手が違う。ゲルか日本でいうキャンプ場のコテージのような場合が多い。電気は必要なときだけ小型のデイーゼル発電器を使い、水は毎日遠くの井戸か川まで汲みに行くか巡回の売り水屋から買うようだ。もともと自然を愛し、キャンプを好む国民性はジンギスハーン以来らしい。彼も平和時には城の外のゲルで過ごす日の方が多かったと言われている。金銭的には日本人とは比べようがないほど貧しいはずだが、彼等の方がより幸福そうでゆとりのある生活を楽しんでいると思う。
ウランバートルの中心にある官庁・大学街から東に向かって20分も歩くと高台のサンサル地域で、5階から10階程度のアパートが立ち並ぶ。その一角に私の住居兼仕事場のフラワーホテルがある。周りの建物は全部レンガ作りで、ロシア人がそのホテルに滞在して建てたと言われ古いビルが多い。レンガ作りの町並みと遠くに見える山の景色は美しく心が休まる。
 ホテルの東側はアパートの中庭に面し、遅くまで日の暮れない夏の夜は大人も子供も遅くまで外で遊んでいる。皆結構話好きなようだ。大声で叫んでいる酔っ払いもいるし、人前で夫婦喧嘩をしているような中年男女もいて、女性は泣きながら近所の人に何やら訴えているような様子。似て非なるもの―日本人とモンゴル人、ラテン系の性格と東欧的な生活用式を持っているのがウランバートルのモンゴル人と思う事がある。
 ところで今日は日本の終戦記念日。モンゴルのテレビでも広島・長崎への原爆投下とロシア軍とモンゴル軍が一緒に関東軍と戦ったノモンハン事件などが報じられている。しかし中国・韓国に見られるような日本に対する悪感情は全く感じられない。戦後ソ連軍の捕虜としてモンゴルの各地で強制労働に就かされ、異国の地で散っていった多くの日本人先輩・同胞のことを慰霊碑の前に立つて思うと、自分がこの国でやっている事が正しく意味のある事なのか反省させられ、申し訳ないような複雑な気持ちになる。彼等らが建てたとされる、今もウランバートルの中心地に残る威風堂々とした外務省本館やオペラ座を見る時は、何時も畏敬の念で自然と頭が下がる。
表題に戻る
元山芳彰のモンゴル報告(1)―マラソン大会
2005年7月31日(日)
 今日はモンゴル・日本マラソン大会の見物に出かけた。ウランバートルから南に約50キロ、草原の一本道を車で突っ走ると、ウンドル・ドヴの外国観光客用ゲル・キャンプが丘陵の陰から見えてきた。この間点々と散在する遊牧民用のゲルと。時たま道路を横切る牛の群れ以外は、一面緑の草原、遠くに見える山々と透き通るような青い空と白い雲だけ。時たま遠くに見える動物の群れが、らくだか馬かそれとも羊かは、同乗のモンゴル人に聞かないと判らない。
 到着したゲルキャンプには、20台近くの四輪駆動車と観光会社のバスが2・3台と、乗馬用の馬が3-40頭と客待ちの牧童達がキャンプ場の柵の外で待っていた。それと大勢のランニング姿の男女。モンゴル人と日本人が半々程度か。ウォーミングアップしている若い連中は、明らかに長距離陸上ランナーに見えた。日本からグループでツアーを組んで、毎年参加すると聞いていた人達らしい中には、年配者も多く観光を兼ねて楽しむために参加している人達も多そうだ。
 主催はモンゴル陸上連盟、日本のモンゴル進出企業がスポンサーで、今年は9回大会だそうで、マラソン参加者は百数十名、5キロ・10キロと21キロ余のハーフマラソンの3クラス。間もなく、参加者が全員キャンプ場から100メートル位い離れたスタートラインから一斉に走り出した。競技スタート予定午後3時を40分の遅れで、モンゴルでは定刻も同じ。
 ランナーのリードはモンゴルと日本の国旗を持った2頭の馬上の人。進行方向の1、2キロ先に大きな赤い旗らしい物が見えたが、そこまで平坦な草原の中を走り、そこから折り返しぎみに三角形の一片のなだらかな丘陵の上り坂が2キロ程度続いて、そこから下り坂でスタート地点に戻る事が分かった。この5キロの道のりを10キログループは2周、ハーフマラソン組みは4周する。スタート地点から全行程が見渡せるのは、この広大なモンゴルならではであろう。
参加者の友人と家族らしい人達の中には馬を借りて、見学(応援?)に出かける人もいた。同行したモンゴル人2人が、自分達も馬を借りようと思い付いたときには一頭も残っていなかった(乗馬に全く自信のない自分はほっとしたが)。
ゼッケンの色で分かる長距離組みのトップグループがスタート地点を走り去るのを見ていると6―7割り方モンゴル人のようで、筋肉隆々で日焼けした、どう見ても長距離ランナーには見えないたくましい姿のモンゴルの女性ランナーが目立ち、ふと日本の大相撲で活躍するモンゴル出身力士達の事を思った。
 帰りの車中で、走ることの苦手な自分も、このすがすがしい風の草原を走ったら、どんなに気持ちが良い事だろう、来夏もモンゴルにいたら5キロに挑戦してみようかと同乗者に口を滑らしたが、マイナス30度を超える極寒の冬のランニング訓練を思ってすぐ諦めた。そこにジープに先導された大型バイクに乗った十数名の男らしい中年欧州人と思われるグループが反対車線を走り去って行った。これも自分には出来ないモンゴルの楽しみ方だとうらやましく思った。
表題に戻る

2006年7月25日、元山芳彰
堀部様
まずはモンゴルから暑中お見舞い申し上げます。
お話の件、お役に立つのであれば喜んでトライさせて頂きます。 9月の上旬2週間帰国予定ですが、少なくとも来年6月まではほとんどモ ンゴルに滞在でホテルの経営に当たる予定です。
猛暑のなかぜひご自愛下さい。
 (7月モンゴル郊外のお花畑)

8月から連載「元山芳彰のモンゴル報告」がスタートします。
元山さんは今年6月にモンゴル企業から招聘され、現地企業の経営指導のお仕事をされています。 朝青龍が13回目の優勝を飾り、日本の人気者になっている。彼がモンゴル出身であることは知らない人はいない。
しかし、我々はモンゴルという国のことは全くといって良いほど知らない。
政治、経済、産業、技術、企業活動、文化、歴史などを元山さんの目から、お知らせ頂きます。 ごく日常的な事から、日記風にお便りをおいただきたいと思っています。 (エイバックズーム、堀部)
表題に戻る
<目次>

(24)最終回−モンゴルが与えてくれたもの
(23)モンゴルに住む
(22)ナーダム祭がやってくる
(21)モンゴルの人々
(20)ビジネス・パートナー
(19)仕事への姿勢
(18)狼狩り
(17)モンゴルと品質管理
(16)モンゴルでのハラハラ
(15)モンゴルでの戸惑い
(14)冬のピクニックと優雅な引退生活
(13)お正月
(12)冬のウランバートル
(11)産業とビジネスチャンス6
(10)産業とビジネスチャンス5
(9)産業とビジネスチャンス4
(8)産業とビジネスチャンス3
(7)産業とビジネスチャンス2
(6)産業とビジネスチャンス1
(5)科学技術と共同研究
(4)会社運営1
(3)テレルジ
(2)夏のウランバートル
(1)マラソン大会
元山芳彰プロフィール
(マラソン大会に同行したモンゴル人社員と)

(略歴)
米国のエネルギー・化学会社とスイスの化学会社役員、日本の経営コンサルタント会社社長などを歴任後、国際協力事業機構のシニアーボランテイアとして2年間モンゴル科学技術大学で経営管理の指導。 「エイバック特許翻訳上級コース」出席中にモンゴルより招聘され、05年6月から日蒙合弁ホテルの日本側株主代表として現在ウランバートル在住。
横浜国大工学部、Univ. of Washington大学院卒。
1936年生まれ。
著者への連絡はこちら

モンゴルおすすめサイト

佐藤武久さんの
モンゴル通信 崑崙の高嶺の此方より

<モンゴル観光協会>


村田和雄氏の冒険
「七十歳の太平洋航海記」
こちら



---------------------------------
(提供)エイバックズーム
TEL 03-3292-2700 FAX 03-3292-2701
---------------------------------
このウェブサイトの著作権は(株)エイバックズームとコラムの筆者にあります。
掲載された記事、写真の無断転載を禁じます。